薩州に残る行基伝説

←行基作の無量寿如来
   (イメージ)

○戦乱や廃仏毀釈の影響もあってか、当寺院の開山された年代は謎に包まれているが、明治以前の本尊が「行基」作の「無量寿如来」であった記録は文献に残されている事から、1000年以上前には存在していたと推察され、周囲の地域にも行基菩薩の足跡が残されている⇩
 
〇伊佐市 
「白木神社(旧白木観音堂)」
→当社に安置されている観音像を「行基菩薩」が制作したといわれ、裏面にもその旨が墨書されている。一説には、平宗盛の曾孫の清祖が平家没落後に京都から海路で出水市米ノ津を経て運んできたとされ、建物自体は元々、眞言宗寺院白木山長福寺の観音堂(白木観音堂)であった。明治期の廃仏毀釈を逃れるために「白木神社」に改名し、観音像は良眼坊が天草に避難させたおかげで破壊から免れた。

〇薩摩川内市 
「薩摩国分寺跡(旧護國山威徳院國分寺)」
→天皇様が行基菩薩に開基や本尊である聖観音像の制作を命じたと文献にあり、豊臣軍の破壊後に復興した際は大乘院末寺の眞言宗寺院となった。伽藍の配置は奈良県の川原寺、あるいは福岡県の観世音寺式という説があり、南北130メートル、東西118メートルと推定される。慶応3(1867)年に廃寺となったものの、昭和60(1985)年に国指定史跡公園として開園された。

【当寺院開基(復興)】

※実際はもっと古い時分に開かれているが、細かな歴史が不明な為に義虎公復興年を開基と設定

永禄5(1562)年に「島津義虎」が眞言宗「無量寿院成願寺」を、薩州家の祈願所として上知識「八幡宮」と神仏習合の形にして八坊と共に復興・遷宮。その後、豊臣秀吉の薩摩入りによって出水が直轄領となった文禄元(1592)年に寺社共に破壊され、慶長4(1599)年の島津惟新公による朝鮮の役の功により出水が復されると18代藩主家久公とともに寺社を再興し、末寺として久蔵院・稲荷寺・如法寺・西ノ坊・今泉寺・安原寺・新福寺・天福寺という八つの坊(出水市中央町八坊という地名はその八つの坊からきている)を抱え、出水一の大寺院と称される(資料を見るに一番石高がある事は確か)程に発展したが、明治期の廃仏毀釈によって寺社坊共に荒廃した。


◯参照:『三國名勝圖會』青潮社
明治以前に存在していた真言宗「成願寺(じょうがんじ)」の絵図 ↓

眞言宗八坊跡地石碑群(八坊の「今泉寺」跡地)

※明治以前に存在した出水市の真言宗寺院

成願寺(八坊として久蔵院・稲荷寺・如法寺・西ノ坊・今泉寺・安原寺・新福寺・天福寺) 莊嚴院 幸善寺 金蔵院 東光寺 多寳寺 御成川寺 般若寺 常念寺 福性院 桂山寺 杉本寺

【中興前後の年表】

○昭和24年
当時国鉄職員であった全璋が、「日佛大地蔵菩薩(現在中央商店街に移築)」を建立した眞言宗僧侶の斑目日佛に弟子としてスカウトされ、第30代内閣総理大臣「齋藤實」が昭和恐慌の折に国民の自力更生を願って自費で東京に建立し、昭和22年時には吉田茂内閣の面々が役員に名を連ねていたとされる「日佛寺」で修行を開始。
 
○昭和29年
日佛死去に伴い、明治期の廃仏毀釈によって法燈が途絶えた出水市の眞言宗寺院や西州高野山・大峯と呼ばれ修行の聖地であった紫尾山を復興するという意思を受け継ぎ、柴田全乘を第二の師とし西出水にて六畳一間の貸家を仮草庵とする。
 
◯昭和35年
9月16日に現在地へ移り「薩門山無量寿院乘願寺」として開山し、9月21日に記念法要が厳修され、山号は日佛師が当地の霊山(愛宕山・紫尾山等)を「薩門山」と総称していた事から、院号・寺名の「無量寿院乘願寺」は永禄5(1562)年に「島津義虎」が八幡宮と共に神仏習合の形で薩州家の祈願所として開かれた眞言宗「無量寿院成願寺」をもとに、第二の師であった全乘の名を一文字加え命名し中興された。

○昭和38年 
「交通安全地蔵尊」建立
昭和38(1963)年9月13日に安置され、当時の市長・代議長・警察署長等が臨席のもと、交通事故減少を祈念する交通安全地蔵尊開眼記念法要が執り行われた。現在、安置されているのは2代目で、初代はおさすり地蔵として本堂前に設置されている。

○昭和50年 
本尊「薬師瑠璃光如来」開眼
寺院建立から15年の時を経て、当山の象徴たる御本尊を名匠に託し、昭和50(1975)年9月21日、当時の高野山奥之院維那「柴田全乘」師を迎え、開眼法要を厳修し檀信徒の諸願成就を祈念する道場を完成させた。

○昭和51年
春日町にて毎年のように大火災が発生するので、役員・評議委員等の依頼で当寺院住職の全璋が火伏不動尊の建立・開眼を行う。

○昭和54年 
「報恩堂」(納骨堂)建立
昭和54(1979)年建立。令和3(2021)年ロッカー式納骨壇90基を新しく増設した。

○昭和60年 
「慈母観音菩薩」建立
昭和60(1985)年に水子の供養・納骨とあわせて、安産・子授を祈念するために建立。

○平成18年 
日佛師が紫尾山にて彫った大地蔵(八坂神社境内)の手水所である、水かけ地蔵尊の開眼供養厳修。

○平成30年 
「墨龍之滝」命名
昭和期に境内における滝行の場として造立し、当時の副住職が帰山にあたり平成30(2018)年9月11日にかつて「西州高野山・大峯」と称されていた「紫尾山」での回峰行を終えた際に「墨龍之滝」と命名した。

○令和2年 
「天凰院樂鳳堂」(聖殿)建立
令和期の天下大疫・異常気象に際して、日佛・全乘・全宜氏等から授かった様々な寺宝を納め、「天地安穏」を祈念する為に『天凰院樂鳳堂』(聖殿)を建立した。内本尊は完全秘仏で堂内は当山住職しか立ち入る事はできないが、開堂した11月には毎年記念法要が厳修され、外から網戸越しに拝観することができる。外本尊「仏母大孔雀明王」は屋根上に祀られ、役行者や蔵王権現の尊像も内部には保管されて山岳信仰の様相も強い。

○令和5年
泉僧園道場「雙岦庵」建立
近代真言宗を代表する慈雲尊者・釈雲照律師を参考に、僧侶・檀信徒問わず自らを律するための施設として『泉僧園道場 雙岦庵』を建立。「泉」は古来における「出水」の名称であり、修業は山行・滝行に象徴されるように「道場」内に留まらず市内の山川草木全てが「僧園」であるという意味が込められており、様々な修行を通して明治以前には西州高野山・大峰と称されていた「紫尾山」や「長野鳶山の滝」をはじめとした周辺地域の行場を復興する意もある。「雙岦」はそびえ立つ山々を表現しており、日本の根源たる「山岳信仰」や「自行」に立ち返り僧侶の仏事の研修や修法の鍛錬はもとより、一般の方々に対しても瞑想・写経の「庵」として活用されている。

◯令和7年
「薩州遠見大師御像」建立
戦国時代において当山復興にも尽力し、薩州全体としても神社仏閣や貿易・灌漑事業の発展に寄与した「島津義虎公」を顕彰すると共に、宗教・立場・地域の枠を超え当人の霊場を構築する事で衆生全体の発展を祈念すべく建立され、「令和7年3月21日」の御影供にて披露された大師像であり、修行している御姿を参拝する事で遍路の功徳を得られ、「改過自新」し心に平安をもたらすとされている。

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